第五章  護るべきもの

「……ここです」
 ドリアードが重たい口調でそう二人に告げた。
 そこは何十にも透明の壁が絡まるように重なり合い、その上に日の光が差し込み眩しく照らしていた。それはあまりにも眩しい光で、暗い所を歩いてきた二人がその光に慣れるまでにはしばらくかかった。
 慣れてきた視界で見えてきたのは頑丈な扉のようなものだった。まるで、そこから先を遮断するかのように仕切っている。とはいっても出来ているのは木の細胞で出来ているので、奥の様子が細かい細胞が重なっているために見えない、といった方が正しかった。
 アベルは全身に緊張が襲うのを感じていた。ここからが勝負なのだ。
 緊張している彼に気がついたのだろう、セレナが軽く目配せする。私を信用しなさいといった感じで、それが不思議とアベルの心を落ち着かせてくれた。
「開けます、良いですか?」
 ドリアードの問いかけにセレナは頷いた。それを確認してからドリアードはその手を扉に差し伸べる。すると扉は淡い光を帯びて輝きだし、ゆっくりと開いた。
 扉の奥には広い部屋が広がっていた。広いといっても先程ドリアードが幽閉されていた部屋よりは小さいだろうか。樹の上部に向かっていったのだから、それは当然といえば当然の事だろう。部屋の内部は透き通っていて、上部の表皮組織の薄茶色の色もかかって、なんとも不思議な色をしていた。やはり扉の外と同様に日の光が差し込んでいてとても明るかった。明るい日の光と透明と薄茶色のかかった壁や床の色、そして幾何的ではない形をした部屋の造り、全てがそこをより一層神秘的なものに見せていた。
 部屋の中央がまばゆく光った。その光の中から人影が現れる。
 薄い紫色の短く縮れた髪に、青い瞳、背の高さは普通くらいだろうか。年齢はアベルと同じくらいに見え、均整の取れた顔立ちで、淡い光をまとっているその姿はまるで精霊のようだった。だが、彼は正確には精霊ではない。元々は人間なのだ。顔立ちは優しく見えるのだが、行方不明事件の犯人は他ならぬこの人物なのである。
 事件の当人が現れてセレナもアベルも身構える。だが、そんな二人の前にドリアードが立ちふさがった。そして、愛しいその人を真っ直ぐな目で見た。
 彼はそこにドリアードが居る事に不思議そうな顔をしたが、すぐにクスクスと笑った。
「ミルセティア?君がどうして自由になったのかは知らないけど……もしかして君がわざわざ僕の為に彼を連れてきてくれたの?」
「いいえ、違うわケリー。もう止めましょう?あなたはどんな事をしてももう人間には戻れないの。あなただってもう分かっているでしょう?」
 ミルセティアと呼ばれたドリアードは彼の言葉にゆっくりと首を横に振り、強い口調でそう告げた。今までの彼女からは考えられないほど意思のはっきりしたものだった。
「ごめんなさい。私があなたを苦しめたのよ。だから……だからあなたを自由にするわ。だからお願い、もうこんな事は止めて!」
 ミルセティアはきっと一番言いたくなかったであろう言葉を必死で告げた。彼女にとっては愛しい人との永遠の別れである。それを決意するのにはどれだけ辛かったのだろうか。
 だが、ケリーの方は少し驚いた顔をしたが不敵に笑った。
「僕を自由に?自由にしたところで人には戻れないんだろう?そのくらい知っているさ。僕の肉体はもう無い。手に入れるしか、人として戻る方法なんて無いんだ」
 そう言うとケリーはすっと手を伸ばし、ミルセティアの方に向けた。
「いいかい、ミルセティア。僕は君を傷つけたくは無いんだ。じっとしててくれるかい?」
 そう言うとケリーの手から強い突風がミルセティアに襲い掛かる。彼女は小さく悲鳴を上げたが、あっという間に壁にぶつけられると、その壁が生き物のように変形して彼女の身体を捕らえた。壁に拘束されたような格好だ。本来、この樹の中では主たるドリアードが一番強いはずなのだが、彼女にはもうその力が無いようだった。足掻いているものの、その枷は外れそうに無い。
「さて、本題に入らないとね」
 ケリーはミルセティアが動けないことを確認すると、アベルの方に向き直る。そして、招かざる人物がもう一人居る事に気がついて顔をしかめた。
「おや?君は……勝手に入ってきた侵入者かな?撃退するように指示しておいたはずなんだけど……ここに居るって事はかいくぐって来たって事か。まいったね」
「あら、いけなかったかしら?私はあなたを尋ねて来たっていうのに」
 明らかな嫌味にもかかわらず、セレナは顔色一つ変える事無くそう笑って告げる。そんな彼女の態度にケリーは不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、大した自信があるようじゃないか。君は招かれざる客だと分かっているのにここまで来たって言うんだからね。少しくらいは話を聞いてあげようじゃないか」
 自らのテリトリーであるがゆえの余裕だろう、ケリーは少し大げさな手振りでそうセレナに言った。だが、その行動には余裕でありつつも警戒を忘れていない事をアベルは感じていた。隙あらば挑みかかろうと思っていたのだが、やはりここまでやって来たセレナに対して警戒を解くような事はしない相手らしい。
 だが、話を聞くという誘いはセレナにとっては好都合とも言えた。こちらの言い分を相手にちゃんと伝えられるという事は、それを相手がどう反応するかは別として価値のある事だからだ。
「あなたの寛大な厚意に感謝するわ。私の目的はね、一つだけなのよ。あなたの行為を止めさせる事。これ以上、誰かを犠牲になんて出来ないものね。だから取引をしましょう?」
「取引?何を取引しようっていうんだい?」
 思わぬ言葉にケリーは少し面食らった顔をした。それに対してセレナは淡々と話を進めていく。
「ええ、取引よ。あなたは人間に戻りたいんでしょう?私はあなたを人間に戻す方法を知っているわ。だから、あなたはもう人間の命を奪わなくて済むの。どう?最高の条件での取引だと思わない?」
 セレナの条件を聞いたケリーは驚いた顔をした。確かに条件はお互いの望む事を満たしていると言えるだろう。最高の条件といえる。
 しかし……それはあまりに都合が良すぎないだろうか。そんな上手い話があるのなら、こんな苦労をしているはずなんて無いのだ。それに……彼女は。
「……保障はあるのか?」
 ケリーはゆっくりと低い声でそう言った。その言葉にセレナは首を横に振る。
「保障は……証拠を見せようが無いから、あなたが信用してくれるかにかかってるわ」
「信用だって?」
 ケリーはけらけらと笑い出した。おかしくて仕方が無いといった感じだ。額を手で覆いながらおかしそうにひとしきり笑い終えると、真顔でセレナの顔を見た。
「信用出来ると思うのか?君は人間でもエルフでもない。そんな半端な奴の言う事を信じろという方が無理だ」
「……こいつ……!」
 セレナに対する侮辱にアベルが業を煮やし剣に手をかける。その手をセレナは握るとアベルを無言で制止した。その表情は真剣で、アベルも剣を収める。今、口出しをしてはいけないような雰囲気を感じたからだ。
 セレナは真面目な表情でケリーとの交渉を続ける。
「どうして?私にはあなたと同じ人間の血が流れているわ」
「だが、エルフの血も流れているだろう?」
 すぐにケリーはそう返した。それに対してはセレナも頷くしかない。
「でも、私はずっと人間の社会で生きてきたわ!」
「じゃあ聞くが君はいくつなんだ?外見では十二、三といったところだが本当にそうか?」
 ケリーの質問はセレナにとって痛いものだった。同じ人間の血が流れている事を根拠に彼を理解できると説得したかったのだが、それは困難だという事を思い知らされ始める。
「……残念ながら、二九よ。でも……それは……!」
「いや、決定的だ。君はやっぱり人間じゃないんだ。
時の流れが違う君には分かるはずが無い」
 その言葉にセレナは詰まった。そう、彼女にとって時の流れの違いは今でも重くのしかかっているものだ。分かるかどうか、それが悟れるほどはまだ彼女は生きてはいない。
 だが、それに口を出してきたのは別の人物だった。
「時の流れの違いが何だって言うんだ?俺は人間だが、お前の言ってる事もやっている事も俺には理解できねえよ!」
 そう、ケリーがいうところの人間であるアベルだった。アベルからすればケリーの行動も話も理解を超えていた。分かる方が無理だと思った。
 しかし、ケリーはそう告げたアベルを見て苦笑した。
「そうかな?君の幸せは何だ?無限の命を望んでいたりする?それとも限りある命を精一杯生きたい?」
「俺は無限の命なんていらねえよ。例え短くても精一杯生きられたらな!」
「だろう?そういうことさ」
 アベルの答えにケリーは頷き、セレナ達に笑って見せた。その言葉に言ったアベルも顔がひきつる。
 つまり、彼が言おうとしていることは種族の違いだけでは無いのだ。
「そう、君達には分からないだろう?短き命を生きるものの思いなんてね」
 ケリーはそう笑ってセレナに言い放つ。それは壁に囚われているミルセティアにも言っているのと同じでもあった。
「……何、勝手な事言ってんだよ!その人生手放したのは自分なんだろ!」
 負けないような大きな声でアベルは言い返した。そう言い返すしか無かった。きっとこの言葉に対して反論できるのは自分しか居ないのは分かっている。だったら彼と同じ立場だったアベルの言葉が一番意味を持つことを理解していた。
 ケリーは一度、短く限りある人生を放棄した。その放棄したはずの人物が、今、失った自らの人生を望んでいるのだ。それを勝手と言わずして何と言うのだろうか。
 さすがにそれにはケリーも少し考える仕草をした。ほとんどすぐに返事を返してきた彼にしてはその間は少し長い。彼は大きく両手を広げて肩をすくめて見せた。
「そうだね……、あの時は最良だと思ったんだよ。僕は何もかも失っていたし、彼女だけが僕の全てだったからね。だけど……やっぱり僕は人間で彼女は精霊なんだよ。そして僕は人でありたいんだ」
 ざああっと風が渦を巻くようにしてケリーの周りに吹き始める。その風が普通の風では無い事にアベルも気がついていた。独特の感じ。この樹に入ってからよく感じてきていた魔力。それが強く感じられた。
「……だからね、君には悪いけど……その身体、戴くよ!」
 アベルが身構えるよりも早く、ケリーの腕がアベルに向かって突き出される。その腕からは無数の風が刃のようになって襲い掛かった。
 同時にアベルの目の前で凄い音が響く。何かが大きく削られたような音で、アベルは思わず閉じてしまっていた瞼を開いた。
 目の前には無数の小さな水や氷の粒が舞っている。そしてすぐ傍にはセレナが立っていた。
「私が居るうちは好きな事はさせないわよ」
 セレナはニッと笑ってケリーを見た。彼も彼女の笑みに不敵に応える。
「氷で瞬時に彼を護るとはね……、大したものだよ」
 ケリーの言葉にアベルはセレナによって護られた事を知った。慌てて彼女の方を見ると、セレナはにっこりと笑って見せた。まるで、私に任せなさいというように。
「つまり、君は僕の邪魔をするんだろう?そうはいかない、邪魔なんてさせやしないさ!」
 ケリーの腕が今度はセレナの方に向けられる。激しい突風が渦となって真っ直ぐセレナに襲い掛かった。セレナは顔色一つ変える事無く、その手を突風に向ける。
 ザザザアアアアアッ!
 凄まじい音がして、辺りに風が吹きぬけた。あまりに激しい風が吹き荒れ、アベルは思わず顔を隠してその突風に耐えた。
 風が収まる頃には、その場に傷一つ負う事無く、にこやかに立つセレナが居た。
「ふうん、やっぱりここまで来るだけはあるね」
 ケリーは感心したように言う。セレナはにっこりと笑った。
「こう見えても魔法には自信があるのよ」
「成る程。それなら僕も本気でお相手しなきゃならないかな」
 ケリーの纏っている魔力の質がより強い威圧的なものに変わっていく。それをセレナは冷静に感じながら、アベルに視線だけ移した。
「いい、アベル。ドリアードを助けてあげて。こっちは心配しないでいいから」
 セレナの強い口調にアベルは頷く。セレナの魔法が凄いのは何となくだが感じるものがあったし、宮廷魔導師というくらいだから実力はあるのだと分かっている。それなら、素直に今は従った方が良いと感じた。足手まといになるつもりは無いが、出来る事があるのならそちらからした方が良いからだ。
 アベルがドリアードの方へと向かっていくのを確認すると、セレナは再びケリーの方を見た。やはりこの樹に長い間居ただけあって、この樹に対する支配力も強く、セレナは相手の手のひらの上にいるようなものだった。ここでどうにかするにはドリアードの協力が何より必要になる。アベルが救出さえしてくれたら、状況はいくらでも好転する。
 今は、なんとかこの状況を打破しないと。
 セレナはいくつかの精霊魔法の準備をする。アベルがドリアードを救い出すまでの間は何とかしてでもこちらに注意を引かさねばならない。
 そしてもう一つ、やらねばならない事があった。なるべく、彼の周りを円形に動いてこれから一番大事な魔法の準備をしなければならないのだ。ドリアードと約束した、彼を生まれ変わらせる魔法。それを諦める訳にはいかない。魔法をかわしつつ、ある程度は魔法陣も形作っておかなければならないのだ。大きな魔法だから、一度の詠唱だけでは成立しない。かといって、それを相手に気付かれないようにしなくてはならない。彼がセレナを信用していないのは明白だ。余計な事をしようとしていると気づかれてしまったら全てが台無しになってしまう。
 セレナは右手に精霊魔法を、左手に魔法陣を描く魔法を唱え、いつでも発動できるようにした。とにかく、上手くやらなければ。
「さあ、私がお相手するわ」
 セレナは炎の渦を纏いながら、ケリーに宣戦布告する。彼はそんな彼女を見て、おろかなものを見るような顔で笑った。

「大丈夫か?」
 アベルが駆けつけた時にはもうドリアードは随分とぐったりしていた。壁から逃れようとしたのだろうが、その身体に傷はついて腫れ上がっているが、肝心の枷には傷一つついていなかった。
「とにかくなんとか外さねえと……」
 アベルは剣を構える。ドリアードに当てないように切り付けなければならない。
「いいか、動くなよ……」
 アベルは注意を促すと、深呼吸する。大丈夫だと何度も言い聞かせ、意識を集中させる。
「はあああ!」
 切りつけると同時にガイイン!と音がし、アベルは突き立てた剣ごと思いっきり弾かれた。その反動でアベルはどさっと腰から後ろに倒れこむ。
「いって〜!」
 打った腰をさすりながらアベルは起き上がる。見た目は樹の細胞で出来ているように見えるし、そこまで固そうでもないのだが恐ろしく頑強だ。アベルはもう一度その材質を確かめるために、ドリアードを拘束している樹の壁を触る。ごつごつした樹の独特の感触はあるが、とても切れないものには思えなかった。何か別の効果が作用しているのだろうか。
「……切りつけても駄目です。これは魔力を帯びているもの。普通よりも遥かに頑強に出来ているんです。彼の魔力が弱まるなりしないとこの拘束は解けません」
 アベルが助けようとしている事に気がついたドリアードは疲れた顔でそう告げた。その瞳には疲労の色が浮かんでいた。
「魔力が弱まるって……いつなるんだよ」
 アベルは視線をケリーとセレナに移す。向こうではケリーの放つ魔法を自らの放つ魔法によって相殺しているセレナが見えた。だが、ケリーの魔法を防ぐ一方のセレナは防戦に追い込まれているように見えた。やはり、相手の本拠地での攻防は厳しいのだろう。
 ドリアードを助ける事くらい出来るのかと思ったが、思いのほか難しそうだ。だからといって、このまま全てセレナに任す訳にもいかない。彼女は任務を果たすだけでなく、自分も護ろうとしてくれているのだ。もう護られてばかりいる訳にもいかない。
「……彼が大きな魔法を使った時なら、もしかしたら」
 ドリアードは弱々しくそう言った。その表情は非常に暗い。アベルはその言葉の真に意味する事に気がつく。つまり、大きな魔法を使うという事は……。
「セレナがピンチになるような時って事……か?」
 ドリアードは重たく頷く。アベルは苦々しい顔をした。
 何ていうことだろうか。かつて出会い憧れを抱き続けた人物に再会し、今度こそその力になろうとしていたというのに、彼女から託された役目を果たすには彼女がピンチになるような事態を待たねばならないとは……。
 アベルはセレナの戦いぶりを見つめた。魔法の事はよく分からない。しかし、攻撃を仕掛けるのは相手だけで、セレナは防ぐ一方だ。その防ぐ魔法は相手の魔法を確かに相殺しているが……それもいつまで続くのかまでは分からない。
「……他に、他に何か無いのか?」
 アベルはすがるような思いでドリアードに尋ねる。しかし、彼女は重たく首を横に振るばかりだった。
「……でも」
 ドリアードがアベルを見上げながら、決意の篭った表情で言った。
「でも、もしその状況になれば私一人でも抜け出せるかもしれません。
 魔力の弱まり具合によっては私の力が上回ります。元々は私の樹なのですから」
「で、でも……それは可能性にしかすぎないんだろう?」
 アベルは戸惑いながらそう言った。彼女は手足から胴体から身体のありとあらゆる部分
が全て拘束されていた。本当に一人で抜け出せるかなんて怪しく思えた。
 しかし、ドリアードはゆっくりと首を横に振った。
「……でも、あなたにとって彼女は大切な人なんでしょう?」
 ドリアードの言葉にアベルは返答に詰まった。大切な人、そう言われればそれには間違いが無かった。ずっと出会いたいと思っていた憧れの人だった。そして、本当は今すぐにでも彼女を助けたいという思いで一杯だった。
「……ああ」
「だったら、助けてあげてください。私はなんとかします。ここは元々私の樹、心配には及びません。後悔しない事をして下さい……。私のように過ちをおかしては駄目。私は一人ぼっちになっていた彼を救ってあげたかった。だから傍にいてあげようと思った。……だけど私は結果的に彼を本当に一人ぼっちにしてしまったのです。そして、今のような状態を作り上げてしまった。だから……あなたは判断を間違えないで」
 ドリアードは切実な表情でアベルに訴えた。アベルはその言葉に息を呑む。
 アベルはセレナに視線を移した。彼女の戦いは不利に見える。防戦の一方だったが、対等に渡り合っていたはずなのに、今ではその力に押されているようだった。
 仮に助けに行っても役に立つ保障は無い。むしろ足手まといになるかもしれない。だけど……後悔するかしないかという判断だったら答えは決まっていた。
「……分かった。俺は、セレナを助けに行く」
 アベルの答えにドリアードは嬉しそうにゆっくりと頷いた。アベルはそれを見てからセレナの方に向き直る。
 その瞬間。ケリーの放った魔法に直撃しセレナが大きく宙に舞う姿が目に映った。
 一瞬、思考が止まる。どこかで彼女は大丈夫なのだろうという意識があった。アベルがかつて見た彼女は凄まじい魔力を持っていたし、ついさっきまで、常に彼女は自信に満ち溢れていた。その彼女がやられるだなんて……心配はしていたものの本当にそうなるとは思っていなかったのだ。
 だけど、今、彼女は確かにアベルの目の前で宙に舞い、そのまま壁に直撃すると崩れ落ちるようにして倒れた。
 今、しなくてはいけない事は一つしかなかった。
 アベルはドリアードの元に駆け戻ると鋭い長剣の切っ先を思いっきり拘束している固く頑丈な壁に突き立てる。
 ガンッ!と大きな音を立てたが確かな手ごたえがあった。今ならこの拘束を壊す事が出来る。アベルは力任せに剣を突き立て、拘束の破壊に努めた。
「な、なにを……!早く彼女を……!」
 セレナを助けに行くと言った本人が、彼女がやられている姿を見て引き返し、自分を助けようとしていることにドリアードは困惑した。彼は今しがた助けに行くと言ったばかりだ。それなのに、何故自分を助けようとするのか分からなかった。
「駄目だ!セレナは加勢するよりあんたを助けるように俺に言った。つまりそれはあんたの助けが必要なんだ!だったら、俺がしなきゃいけないのはあんたを解放することだ!」
 アベルは必死で剣を突き立てながらドリアードに叫んだ。魔力が緩んでいるのだろう、先程は歯が立たなかった拘束も、今は確実に傷つけることが出来た。
 そう、彼女がやられている姿を見て、助けに行きたかったのは本当の事だ。本当なら一刻も早く駆けつけてやりたかった。
 だけど、彼女はアベルにドリアードを助けるように言った。おそらくそれが必要なのだ。それを同時に感じたのだ。彼女は俺を信じてそれを任せたのだと分かったのだ。だから、すぐにでもこの拘束を壊しセレナの元に駆けつけるのだ。
 早く、早く、一刻でも早く……!
 気持ちばかりが焦って手元が狂いそうになるのを必死で修正しながらガンガンとアベルは壁に向かって剣を突き立てた。壁は元々樹の一部だ。傷つけることは比較的易しい。特にこのドリアードの樹は特別硬い樹では無い事が幸いした。確実に剣での傷は壁を突き壊していき、壁の拘束は少しずつドリアードの身体を自由にし始めた。
 ドリアードもアベルの意思を理解したのだろう、彼女も彼を早くセレナの元に向かわせようと拘束からの脱出を図っていた。そして、手の拘束が外れた時、ドリアードはアベルの方に真剣な顔で向き直った。
「……両手さえ自由になれば……きっと大丈夫!」
 ドリアードは両手で印を結ぶと、意識を集中し始める。彼女の集中力が高まるにつれて彼女自身も輝く光に包まれた。
 パアアアンッ!
 弾けるような音と共にドリアードの身体は解放された。それを見て、アベルは安堵の息を漏らした。そんな彼に自由になったドリアードはその腕を掴んだ。
「ありがとう。私はもう大丈夫。早く彼女を……!」
 そう訴えるドリアードにアベルは首を横に振る。
「いや、あんたはセレナを頼む。何か考えがあるに違いないんだ。それに……狙われてんのは俺だ。あんたの恋人とのケリは俺がつけるしかない」
 アベルはドリアードにそう告げると、身を翻し駆けていった。彼女の愛する人の下へ。
 ドリアードはそれを切なげに見つめると、もう一度心を決めて倒れているセレナの元へと向かった。

「……本当は関係の無い人まで巻き込む気は無かったんだけどね。邪魔するんだから消えてもらうしかないな」
 ケリーは冷たい目でセレナを見下ろしていた。何度も何度も彼に対してはむかってきた魔導師。決して傷付けたい訳ではないが、目的達成を邪魔する邪魔者でもある。
精霊に近い存在になっている自分に対して、エルフの血を引いているとはいえその本拠地であるにも関わらず戦おうとした彼女。その思いは認めてはいた。
だが、目的を邪魔される訳にはいかないのだ。ずっと望んできた事なのだから。
 ケリーは倒れ蹲っているセレナに向かって手を向けた。そしてとどめの呪文を唱えようとした時に、彼女の前に立ち塞がる人物に気がついた。
 ケリーが見つけた人間だった。そう、かつての自分とよく似た年頃の青年。
彼は思わず微笑む。
「……へえ、彼女を助けに来たのか。それなら交換条件はどうだい?」
 ケリーは微笑みながらそうアベルに告げた。アベルは怒りに近い思いで剣を構えた。
「……どうせロクでもない条件なんだろ」
「いや?君が僕に身体を譲ってくれるのなら、彼女には指一本触れないさ」
 予想通りの交換条件だ。アベルはその言葉に大きく首を横に振った。
「冗談じゃねえ。俺の身体は譲らねえし、セレナにも指一本触れさせるものか!」
 そう答えるが早いかアベルはケリーに向かって走り、斬りかかる。ふいっと風のようにケリーはその一撃を避けた。
「困ったな、君の身体は出来るだけ傷つけたくはないんだけど……大人しく譲ってはくれないみたいだね。まあ、当然かもしれないけど」
 そう笑いながら、ケリーは次々と斬りかかってくるアベルの攻撃を紙一重でスイスイと避けていく。アベルは当然、当てるつもりで斬りかかっているのだが、何故か相手にはその動きが読まれているかのようにかわされてしまうのだ。
「……ちょこまかと!」
 アベルは必死で剣を振るいながら当てようと必死になる。アベルは力も比較的あるが、どちらかといえば技で挑むタイプの剣士だ。自分でもその命中率は高いほうだという自負があった。しかし、この相手にはまるで当たらない。相手が反撃をする事を考慮しておらず、逃げることに徹しているのも原因かもしれなかった。
 アベルの斬撃は、流れるような彼の動きに空を斬り続けた。

『大丈夫ですか?セレナさん』
 倒れこんだままのセレナの傍にドリアードは走り寄った。セレナは苦痛の顔をしたまま動かない。ドリアードは慌てて彼女を抱き起こしセレナの意識を確認した。揺り動かしたせいで彼女の意識が戻ったらしい。低く唸った。
『……良かった』
 安心の息をつく。生きていて良かったと心から思った。
『……ん……あ……ドリ…アー…ド?』
 セレナはなんとか開いた視界にドリアードが映ったことで彼女が解放された事を知った。
 ちゃんとアベルは彼女を助けてくれたのだ。ちゃんと分かってくれていたのだ。
 これなら……きっと大丈夫だ。
 セレナの中に少しの安堵感が生まれる。これならなんとかなる。
「……うっ」
 身体を動かすとセレナに激痛が襲う。魔法には比較的耐性を持っているとはいえ、何度も食らっているので身体が痛い。だが、ここで諦める訳にはいかないのだ。
『大丈夫?』
 明らかに辛い顔をしているセレナにドリアードが心配して声をかける。
 セレナはそれに対して首を縦に振った。顔を上げた先には、必死でケリーに対して戦おうとしているアベルが映っていた。
 彼は頑張ってくれているのだ。彼に応えなければならないのだ。セレナは残っている力を振り絞った。
『大丈夫。だけど、ちょっと立ってられないから支えてもらえるかしら』
 脂汗をかきながらセレナはそう伝えると、ドリアードは彼女の身体をすぐに支えてくれた。身体が重なって、セレナはひどく安心感に襲われた。
『ありがとう。下準備は大体出来ているの。後はあなたが彼を解放してくれるだけ』
 セレナは再びアベルに視線を移す。アベルは完全に遊ばれるようにかわされていて、その不利さは見た目に明らかだった。
『……行きましょう、全ては上手くいくわ』
 セレナの真剣な言葉にドリアードもゆっくりと頷いた。彼女にも分かっていた。これからどうしなければならないのか。
 そして彼女を支えるのは傷つきながらも自信に溢れた顔をしているセレナだった。
 彼女は奇跡の神様が居るのだと信じているようだったが……それは違うようにドリアードには思われた。
 彼女は奇跡を待っているのではない。自ら起こそうとしているのだと。

 ケリーの動きはまるで風のようだった。そして剣の動きにあわせてふわっと揺れてはかわしていくのだ。それはまるで風にふかれた柳のようだった。
 どうやったら当たる?このままじゃ、剣を振るうだけで疲れて動けなくなってしまう。
もしかしたらそれが狙いなのかもしれなかった。相手はアベルを傷つけるつもりが無い。
それなら、勝手に自滅させるのが一番良いのは明白だ。
 そう簡単にやられてたまるか、アベルはそう思う。このケリーは何だかんだ言っても元人間だ。集中力が削がれる事もあるだろう、その時がチャンスだ。その集中力を削ぐには……思いつく手段は一つしかない。
「……大体、なんだって今更人間に戻ろうってんだ!あんたはここで暮す事に同意したんだろう?」
 斬りつけるのは止めないまま、アベルは叫ぶようにケリーに話しかける。話しかけ、感情的にする事くらいしかアベルには思いつかなかった。勿論、自分が感情的になってしまう可能性も否定は出来ないのだけれど。
 だが、ケリーも相手が自分と同じ人間であり年頃も近い事から警戒が緩むのだろうか、その言葉に乗ってきた。
「確かに同意したのは本当だ。ここで暮らすのも悪くないと思ったよ」
「それなら何故!あのドリアードはまだあんたの事を想ってるんだぜ?」
「知っている。それに僕も今でも彼女の事を愛している」
「それなら……何故!」
 アベルの剣先をひらりひらりとかわしながら、ケリーはまるで遠い昔を思い出すような目でそう答えた。その答えはアベルをより一層疑問に誘う。同意の上の事なら、何故人間に戻ろうとするのか、余計に分からなかった。しかも、ドリアードの事を愛しているという。より一層訳が分からなかった。
 アベルは斬りつけようとしている相手の瞳の色が沈むのに気がついた。
「……僕の時代はね、疫病が流行った年だった。僕はそれで家族を皆失った。村も壊滅した。旅に出ていた僕はそれを逃れたけど、故郷はもう無かった。独りぼっちだった」
 ケリーは相変わらずアベルの剣をかわす動きには異常は見られなかったが、その表情は明らかに変わっていた。
「もう誰も居ない、そう思った時に彼女に出会った。彼女も独りを知っていた。だから惹かれたし、共に暮らそうと思った。実際、幸せだったよ」
 そこまで言ってから、ケリーの表情は怒りに近いものに変わる。
「……だけど……!彼女は自分の分身を生み出していた。最初は彼女の子供だからと思っていた。だけど、その子供と共に暮せる訳でもない。子供はいても、家族として生きられる訳じゃない。だんだん、疑問に思ってくるようになった。彼女は子供が残せるのに親になれるのに僕にはその資格が無いんだ。そして……家族を持ちたいと思った僕の気持ちは彼女に理解されなかった。……僕はただ、普通の家庭を持ちたかっただけなんだ!」
 彼の表情が今までになく感情的になった。聞いているアベルは複雑な思いを隠せない。
 家族を持つということは多くの人が当たり前のように思っている事だ。精霊と結ばれればそれは望めないと最初は分かっていても、子供がいるのに親子にもなれない、そしてその気持ちが理解されない。それは明らかに精霊と人間の矛盾だったのだろう。
「精霊には人間の気持ちは分からない、そして僕は精霊にもなれないしその考え方を理解する事も出来ない!僕は後悔したよ、心から。もっと早くに気がつくべきだったんだ。同じでは無い事を。だから、人間に戻りたいんだ!やり直したいんだ!」
 ケリーは絶叫するようにそう叫んだ。それは初めて見せる彼の隙でもあった。アベルはそれを逃す訳にはいかない。渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
「……だからって、好きな人を悲しませて、関係の無い人間を巻き込む事が許されるはずがねえだろ!」
 アベルの剣がケリーを切り裂く。それを避けようとするものの、避けきれず彼は肩から胸へと斬り付けられ弾き飛ばされる。だが、アベルの感じる手ごたえは違っていた。
 やっぱり人間でもねえんだな……。そう再認識する。まるでゼリーか何かの柔らかく不定形のものを斬ったような感触だった。
 吹き飛ばされたケリーがゆっくりと紫の髪を揺らせて起き上がる。その顔は怒りに満ちていた。
「ふん、君に分かるはずがないだろう!僕が長年思ってきたことなんて!」
「あんたじゃねえから分かるはずねえよ。でも、一つだけなら分かる事もあるぜ」
 怒りに満ちたケリーに向かってアベルはきっぱりと言い放つ。
「俺もあんたのいう人間じゃねえ相手を想ってる。俺は……彼女を想った事を後悔なんかしたくねえよ!」
 そう、後悔なんてしない。あの時憧れた気持ちも、足手まといにならないと決めた事も。例え、ここで命を落とす事になったとしても。彼女を信じた事を後悔なんてしない。それはアベルにとって大きな意味を持っていた。そう、それが全てだった。
「……なるほどね、君が彼女を庇おうとする訳はそこか。先輩としては種族を超えた恋愛なんてするべきじゃないと勧めておくけどね」
 アベルが言わんとしている相手が誰なのか、ケリーにもすぐに推測がついたらしい。そう言って彼は苦笑した。
「……傷つけたくは無かったんだけど、どうも押さえつけても大人しくしてくれない相手みたいだね。こんな風に出会わなければ、君の事は結構好きだったんだけどね、君の想いの人も。でも、こればかりは譲る事は出来ないんだ」
 ケリーはそう言うとアベルに向かって腕を突き出す。彼の周りに魔力が集まっていくのがアベルにも分かった。そして、その魔力がとてつもない事も。殺してはこないだろうが、今までのようにこちらを傷つけてこないという認識はもう出来ない。アベルは剣を構える。身体が震えるのが分かった。相手はセレナでさえてこずるような魔法の使い手。そして、剣士たるアベルにとって、魔法使いはもっとも戦いにくい相手でもあった。
 ……でも、殺しては来ないはずだ。最後まであがいてやる。アベルは剣を持つ手に力を入れた。
 轟音がして、突風がアベルに襲い掛かる。アベルは頭を両手で覆うようにしてその突風に何とか耐える。吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。
「へえ、耐えたね。じゃあ、これはどうかな?」
 何とか風を耐え切ったアベルに続けざまに無数の氷の刃が飛んでくる。アベルは必死で剣を握りなおすと、襲ってくる氷の刃を打ち落とす。セレナの言った通りだった。実体があるから落とす事は可能なのだ。
だが、無数に襲ってくる刃を全て防げるはずもない。叩き落しそこなった一部がアベルの身体を切り裂いた。身を切るような痛みが走る。
「……くう!」
 アベルは身体に走る激痛にひざをつく。両腕や両足に避け切れなかった氷が貫いたり切り裂いたりして、血が滲んでいた。やっぱり魔法は苦手だ。アベルはそう思うが、そんな暢気な事を言ってはいられない。痛みに耐えながらなんとか起き上がる。
「……痛いんだろう?もう無理する事は無いじゃないか」
 これ以上はもう傷つけたくないといった表情でケリーは肩をすくめる。だが、こんな程度でねをあげるわけにはいかないのだ。
「ふざけるな!こっちだってタダで身体なんてやらねえ!」
 起き上がるのもやっとの身体だが、それでもアベルは最後の抵抗をする。ここで負ける訳にはいかない。このまま死ぬにしても、簡単に身体を明け渡してやるものか。
「……そうよ、アベル。その通りよ。よく頑張ったわね」
 ケリーとアベルの間に別の声が挟まる。その声の方向に二人は向く。そこにはドリアードに支えられるようにして、金色の髪の少女が立っていた。
「……ミルセティア、いつの間に自由に……」
 セレナに次いでアベルの相手をしていたケリーはドリアードが自由になっていた事に気がついていなかったのだろう。彼女がセレナの傍に居る事に驚いていた。
 セレナはドリアードに支えられながら、傷ついた身体を起こしケリーを見据えた。ドリアードも彼をしっかりと見つめる。それは今生の別れを告げるかのようだった。
『……今までありがとう、ケリー。あなたに会えて良かったわ。だから…さようなら!』
 ドリアードがそう言うと、ケリーの身体は急にゆらっと揺らぎ始め、だんだんと半透明へと変わっていく。
「……こ、これは?」
 突然もたらされた自分の変化に紫の髪の青年は慌てていた。何が起きているのか分からなかったのだ。彼が慌てている間にもだんだんとその姿は陽炎のように変わっていく。
『……我は願う、かの人に新たなる輪廻を……!』
 セレナはそう唱えると両手をケリーへと突き出す。その手からはまばゆいばかりの光があふれ出して、ケリーを包み込んだ。
 同時にケリーの周りからもいくつもの光が輝き始め、円形の陣が姿を現す。先程、セレナが避けながら描いていった魔法陣だった。陣からの光は強くなり、ケリーへと向かって行った。
 セレナの一世一代の魔法だった。輪廻転生の魔法は誰にでも扱えるものではない。すぐに使える魔法でもない。十分な魔力と技術、そして時間をかけてこそ出来る魔法なのだ。そして、アベルが彼をひきつけてくれたお陰でこの魔法はしっかりと発動した。人に戻ることに執着するかつての人を元に戻すために。
重なりあい、渦巻きあった光は強い輝きを増し、消えかけているケリーはまるで光り輝いているかのように見えた。光に包まれていくケリーを見て、ドリアードが泣きながら彼へと駆け寄った。
「ごめんなさい……!私……あなたを……!……だから、もう自由に……!」
 愛しい人の下に駆け寄ったドリアードは消えていく恋人の手を握り、泣いていた。その恋人の言葉と行動でケリーは何が起きたのか察したのだろう、柔らかに微笑んだ。どんどんと透けていくその手で彼女の頬に手を当て、慰めるような顔で笑った。
「僕こそ……君を理解してあげられなくてごめん。だけど……君との生活は本当に楽しかったんだよ。迷惑ばかりかけたね……次に君と出会えるのなら、今度こそ償いたいよ」
 そう言い終わると同時に、ケリーが放つ光はより一層輝きを増した。そして彼女が握っていたその手は本当に消えていき、思わず恋人を抱きしめようとしたがその腕は空を切った。ドリアードはその場にへたりこみ、そのままうずくまった。辺りには、ドリアードの悲しみの泣き声が響き渡るだけだった。

 悲劇的な幕切れの後、やっと泣き止むことが出来たドリアードは、二人の訪問者の下に歩み寄ってきた。
 アベルはばつの悪そうな顔で彼女を迎え入れる。何が起こったのか、セレナに聞くにも聞けず、少なくとも自分の身体を奪おうとした相手が消えていった事しか分からなかった。
 戻ってきた彼女をセレナは優しく抱きしめた。ドリアードもセレナを軽く抱きしめると、その身体を離し二人に笑顔を見せた。
「……どうもご迷惑をおかけしました。彼は……再び人としての輪廻を廻り始めました」
 そう言うとドリアードはアベルに頭を下げた。そして次にセレナに頭を下げる。
「特にセレナさんには本当に感謝しています。私が彼を解放しても、精霊に近い状態にあった彼はきっと人には戻れなかったでしょう。あなたの協力があってこそ、彼を人へと戻す事が出来たのです。本当に感謝しています」
「私は当たり前の事をしただけなんだから、そんなに謝らないでよ!」
 そう言ってドリアードは何度も頭を下げた。それに恐縮したセレナがドリアードの身体をこれ以上頭を下げさせないようにして抱きしめた。
「……それに、一番辛かったのはあなたでしょう?」
「……私は大丈夫です。だから……心配しないで下さい」
 二人は慰めあうかのようにそっと寄り添っていた。
 二人が互いに理解しあえるのは女性同士だからなのかもしれないし、セレナがエルフの血を引いているからかもしれない。ケリーが言っていた理解しあえないという言葉の意味がアベルにも分かるような気がした。少なくとも、アベルはその心を分かち合うことは出来るとは言いかねたからだ。
 しかし、話の流れからすればセレナがあの時かけた魔法でケリーは人として生まれ変わることが出来るらしい。それは今すぐ戻ろうとしていた彼の意思には反するが、人間に戻りたかった事を考えれば一番良い方法だったのだろう。そして、この事件も解決を迎えた訳である。行方不明となった人達を救う事は残念ながら叶わなかったけれど。
「ありがとう、アベル。あなたが頑張ってくれたお陰で上手くいったのよ」
 セレナはドリアードから身体を離すと、アベルの手を握ってにっこりと笑った。
「……いや、別に何もしていないような気がするんだけど」
 アベルは正直にそう答える。セレナを護ろうとしたものの実際はやられる寸前だったし、結局何の役にも立っていないのは明らかだった。
 だが、セレナは違うと首を横に振った。
「いいえ、違うわ。あなたは私の言葉通りに、ちゃんとドリアードを助けてくれた。私があの輪廻転生の魔法を使うには彼女が彼を解放してくれる事が必要だったし、攻撃をかわしながら輪廻転生の魔法への下準備も進めていたけど時間が足りなかったの。だけど、あなたが向かって行ってくれたお陰で私は魔法を完成させる時間が取れたし、何とかなったのよ」
 セレナはそう言って微笑んだ。優しい笑顔だった。
 アベルに分かるのは、セレナの言葉に従った判断が正しかった事、そして結果的には彼女の役に立てたという事だろうか。それならば目標は少しではあるけれど達成出来たのかもしれない。アベルはそれが何だか照れくさく感じられて頭を掻いた。
「お二人共、外へとお送りしますね」
 ドリアードが微笑み、セレナとアベルの顔をかわるがわる見た。その表情はすっきりとしていて、彼女も新しく歩みだしていけるだろうという気持ちになった。
 ドリアードが両手を広げると、二人の周りに緑の眩い光があふれ出した。その光が外へと導いてくれる事が何となく感じられた。
「色々とごめんなさい、そしてありがとう」
 光に包まれたアベルの手をとり、ドリアードは感謝の言葉を述べた。それに対してアベルは適切な返答を思いつくことが出来ず、頷くだけだった。そんな彼にドリアードは優しく微笑んだ。
 次に彼女はセレナの顔を見た。もう、セレナもアベルの姿も消えかけていた。彼女は消えていくセレナに向かって、最後の言葉をかけた。
 ドリアードが見えなくなる瞬間、セレナは彼女の言葉を聞いた。
『あなたにも最愛の人が現れることを祈っています』
 いかにもあのドリアードらしい言葉だとセレナは思ったのだった。

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